雑記帳

雑食で書いてます

雑記10「散文的備忘録の解放」

 物書きにはままあることだと思うが、私自身も備忘録を取る癖がある。流れる日常の中でふと気に止まったものや思い浮かんだことをすべて備忘録として書き留める。もちろん言葉でも音楽でも。景色でも新聞の読者投稿欄でも。私たちが子供だったときと比べて世の中は便利になった。スマートフォン一つですべて保管出来る。そして、後からそれを見返すのは目的があるからではなく、ただ何気なく気に止まった理由を探すためである。そしてそこから何を自分が思うのか。この一つの形を持たない備忘録を散文的備忘録と私は名付けた。

 この散文的備忘録は忘れないためにあるものではない。ただ気に止まったもの、思い浮かんだものを残しておくというそれだけのためだ。もちろん後から見返すこともあるが、そんなことを目的とは考えない。そのときその一瞬を残す。散文的備忘録に埋もれてしまった言葉や景色は、それでまた価値がある。不思議とそういうものとはまた巡り会うことが多いからだ。ごった返す備忘録の中から。

 散文を集めたところで、一つの文章にはならない。それはただの言葉の寄せ集めだ。だからこの散文的備忘録に意義はあるとしても価値があるかは自身でもよくわからない。ただ単に、空が綺麗だから、スイーツが美味しそうだから、と写メる女子とさして変わったことはしていない。女子だってそうだ。写メを撮ったところで価値はない。それらはインスタグラムとかツイッターとかで加工して解放することで価値が生まれる。同様に考えると散文的備忘録も加工して解放することで何か価値が生まれるのかもしれない(というより文章を書いているこの今こそがそのタイミングなのか)。ともあれ、私の散文的備忘録は今もなお蓄積を続けるのであった。

 「言葉」というものに魅了され、様々なところで文章を書き始めてから早10年が経つ。その間私は、自分の書く文章が他の誰よりも最も優れていると思ったこともあったし、逆にてんでお話にならない小学生が書くギャグ漫画かと思うこともあった。いつかは文章力というものを感じたこともあったが、今思うと果たしてそういう力というものは存在するのだろうかとも思う。文章力とは語彙力とか構成力とか、そういう話ではないような気がしてならない。少し前と比べて、文章とは「こうでなくてはならない」といった定義が自分の中で少しずつ崩れていったような気もする。10年目のここにきて「文章とは、なんだ」と改めて自身を追求する時期に差し掛かっているなと感じている。

 今日、今の時点で私が定義する「文章」とは、一瞬である。どの言葉を選んでも、その文章が生きるのは一瞬だと考える。書いた一瞬、読んだ一瞬、見た一瞬、感じた一瞬。その一瞬を我々は切り取って行かねばならない。陳腐な言葉などはこの世には存在しないが、心ない言葉は多量に存在する。情報が大量に溢れ、伴って1日に目にする心ない言葉や文章は膨大な数である。その激流・濁流とも言える記憶の積み重ねの中で、書き手も読み手も、気づいた一瞬を言葉として切り取らねば、濁流の渦から弾かれて、気泡となって綺麗に、美しく消え去るのである。

 散文的備忘録とは、一瞬を繋ぎ止めようとするためだけのものだ。消え去るものも何も止める必要はない。ただ、何事も「美しく消え去る」という現象だけは、普段からあってはならない現象であることは間違いない。