雑記帳

雑食で書いてます

雑記11「周囲にある機器が古くなった感」

 いよいよ自分の手元にあるIT関連機器が古くなってきた感がある。いまいち今どんな機械を持っていたか再確認のため記載してみる。

 

ドスパラ製 B5ノート"PRIME"

 こいつは大学時代に買ったPCだ。OSはもちろんXP。CPUはAMDのcore2という骨董品レベルのPC。もちろん用途はなし。もう多分開くこともないと思われる。ただ中にデータがあるので、いつかは引っ越し作業をしなければならない。

 

NEC製デスクトップPC×2

 Windows7で4Gメモリ、Corei5という補強すればなんとか使えなくもないデスクトップPC。補強してやらねばならず、それがめんどくさくて放置している。なんせ2台もあるし。

 

ASUS製15inchノート

 唯一のWindows10機。Windowsではこいつか主力なっていて、これからも多分こいつが主力のはずだ。Corei5のメモリ8G。

 

Surface RT

 言わずと知れたゴミ機。ただ会社のネトワークへアクセス出来るので、使用するときはたまにある。

 

MacBook Pro(2012年頃)

 未だに現役で動かしている骨董品。こいつは音楽データやらなんやらが大量に入っている。写真データなんかはWindows機か外付HDDに移して音楽だけにしたいと思う。ちなみにこのブログはもっぱらこいつで書いている。

 

iPad 9.7インチ(第五世代)

 Apple Pencilなんかが使えない微妙な立ち位置だが、タブレットとしてはまだ主力で頑張っている…。第六世代に切り替えたいと思っている。

 

iphone 8

 また微妙な8を買ってしまうあたり、自分冴えないなと思う。今年の11月に変える予定。

 

 あと当時は高かった外付HDD500GBのものもあるが、それらも整理しなくてはならない。あぁまたやることが増えたような気がした。

雑記10「散文的備忘録の解放」

 物書きにはままあることだと思うが、私自身も備忘録を取る癖がある。流れる日常の中でふと気に止まったものや思い浮かんだことをすべて備忘録として書き留める。もちろん言葉でも音楽でも。景色でも新聞の読者投稿欄でも。私たちが子供だったときと比べて世の中は便利になった。スマートフォン一つですべて保管出来る。そして、後からそれを見返すのは目的があるからではなく、ただ何気なく気に止まった理由を探すためである。そしてそこから何を自分が思うのか。この一つの形を持たない備忘録を散文的備忘録と私は名付けた。

 この散文的備忘録は忘れないためにあるものではない。ただ気に止まったもの、思い浮かんだものを残しておくというそれだけのためだ。もちろん後から見返すこともあるが、そんなことを目的とは考えない。そのときその一瞬を残す。散文的備忘録に埋もれてしまった言葉や景色は、それでまた価値がある。不思議とそういうものとはまた巡り会うことが多いからだ。ごった返す備忘録の中から。

 散文を集めたところで、一つの文章にはならない。それはただの言葉の寄せ集めだ。だからこの散文的備忘録に意義はあるとしても価値があるかは自身でもよくわからない。ただ単に、空が綺麗だから、スイーツが美味しそうだから、と写メる女子とさして変わったことはしていない。女子だってそうだ。写メを撮ったところで価値はない。それらはインスタグラムとかツイッターとかで加工して解放することで価値が生まれる。同様に考えると散文的備忘録も加工して解放することで何か価値が生まれるのかもしれない(というより文章を書いているこの今こそがそのタイミングなのか)。ともあれ、私の散文的備忘録は今もなお蓄積を続けるのであった。

 「言葉」というものに魅了され、様々なところで文章を書き始めてから早10年が経つ。その間私は、自分の書く文章が他の誰よりも最も優れていると思ったこともあったし、逆にてんでお話にならない小学生が書くギャグ漫画かと思うこともあった。いつかは文章力というものを感じたこともあったが、今思うと果たしてそういう力というものは存在するのだろうかとも思う。文章力とは語彙力とか構成力とか、そういう話ではないような気がしてならない。少し前と比べて、文章とは「こうでなくてはならない」といった定義が自分の中で少しずつ崩れていったような気もする。10年目のここにきて「文章とは、なんだ」と改めて自身を追求する時期に差し掛かっているなと感じている。

 今日、今の時点で私が定義する「文章」とは、一瞬である。どの言葉を選んでも、その文章が生きるのは一瞬だと考える。書いた一瞬、読んだ一瞬、見た一瞬、感じた一瞬。その一瞬を我々は切り取って行かねばならない。陳腐な言葉などはこの世には存在しないが、心ない言葉は多量に存在する。情報が大量に溢れ、伴って1日に目にする心ない言葉や文章は膨大な数である。その激流・濁流とも言える記憶の積み重ねの中で、書き手も読み手も、気づいた一瞬を言葉として切り取らねば、濁流の渦から弾かれて、気泡となって綺麗に、美しく消え去るのである。

 散文的備忘録とは、一瞬を繋ぎ止めようとするためだけのものだ。消え去るものも何も止める必要はない。ただ、何事も「美しく消え去る」という現象だけは、普段からあってはならない現象であることは間違いない。

雑記9「逃げる2月」

 2月に入りました。逃げる2月という副題をつけてみました。いや、この場合主題となるのか。雑記にはナンバリングにプラスして主題をつけるというの悪くないかもしれない。

 主題の通り、2月は逃げるというが、一体逃げるとは何が逃げるのか。1月は行く、2月は逃げる、3月は去ると一般的には言われますが、時間の過ぎる早さとこれまた一般的には答えられます。しかしこう何か文法的にすごく引っ掛かる人は多いのでは。なぜか「行く」だけ能動的な意味に感じ取ってしまうからだろうと思います。1月は行ってしまう、2月は逃げてしまう、3月は去ってしまう。というような言い回しだと思えば、まぁ何となくわからなくもないです。

 

 さて今年こそはと気合を入れた(私を含めた)方々はいかがお過ごしだろうか。2019年もひと月と半月が過ぎました。もし気合を入れたことをずっと続けているのならばそれはある種その分野を物にしたと言っても過言はなさそうです。すべては続けることが大事らしいですので。習慣というのは身につけると強い反面、身につけるまでが非常に難しいものです。習慣化されたものはもはや自分の武器であろうと私は思います。

 しかし初日からいきなり物事を習慣化出来るのは稀です。もう稀中の稀です。三日坊主知らずですからね。そのために人は形から入ったり、今はタイミングじゃないとか余計な言い訳したり、そんなこんなを繰り返すわけですね。三日坊主を繰り返して習慣化することがまぁまさに理想でしょう。

 

 話題は変わって好きな漫画である「あひるの空」を今年に入って読み直しました。最新刊まで読むのに苦労しましたよ。なんせ高校生の頃から読んでますから、内容を思い出すのに行ったり来たりと。その「あひるの空」で私自身好きな言葉があって、作者のポエムに近いんですが、「走って止まって、走って止まって、それを私たちは歩みと呼ぶのだ」と。素晴らしい言葉だと思いました。ずっと歩き続けることは最初からできないんですよね。やろうとしてもなかなか出来ない。走って躓いて、を繰り返して後から振り返ると、あぁこれだけの歩みがあったのだと。

 その言葉だけがなぜかこう「あひるの空」の中で印象に残っています。それと共にこれが自身の座右の銘ではないですが、そういう風に行(生)きたいよね。と心の中で思う事がよくあります。つまり最初から歩んでゆっくり行こうなどという考えはいずれ、その物事は止まってしまうんだろうなと思っています。走って止まって、走って止まって、それを繰り返しながら、逃げる2月を追って、去る3月にしがみ付いて、いけたらなと思います。

 

 駄文でございました。

雑記8 '19th

 2019年となりました。前回は1年と8ヶ月の間を空けましたが、今回は前回の投稿から1ヶ月も経ってないのではないでしょうか。あの記事から少し気持ちが変わって、前よりも何か書こうと思うようになっています。いいことだ。しかし年末年始は休暇と言えどもなかなかやることに追われて、しょうもない時間を過ごすことができない。毎年そうであるにも関わらず、毎年年末年始の休暇に期待をしてしまうので、今回2018年から2019年に掛かるこの年越しは、やれることは少ないと割り切って過ごしたために、ダメージは少なかった、はずだ。代わりにこの年明けすぐの3連休を有意義に使おうと考えていた次第だ。自分にとって有意義に使うとはどのようなことだろうと改めて考えたら、やるべきことをやるのではなく、やりたいことをやる。に落ち着いた。これに尽きる。いくら体たらくに過ごしても良い。それがやりたければそれで良い。"あーあれやりたかったのになぁ"っていうの思いを休み最終日にしたくないので、やりたいことをやる。これで良い。なので今日は好きなだけ映画を見て、好きなだけ音楽を聴いて、今、好きなように文章を書いている。それで良い。

 

 そういえば年が明けて1週間ほどで誕生日が来てしまった。前回記事にも書いたがついに大台に乗ってしまった。特になんにも変化はない。もちろん気持ちにも変化はない。ただ自分はもうこの歳になってしまったのだと思う。30代はどういう風に過ごそうかと考えていて、結果昔を取り戻したいと思いました。変な書き方だけど、やっぱこうやって文章を書くことしか取り柄があんまりないんですよね。仕事や他のことで手一杯ではあるけど、忙しさを理由にやりたいことを諦めてはいけないと思うし、今まであったいろんなことや経験を考えると、後先考えずにやってしまったことの方が自分のためになった事が非常に多い。だからこのブログも続けていこうと思ったところです。まぁそのうち、いろんな展開が待っているでしょうきっと。

 

 そういえば、今日たまたまDTVを見ていたら、ドラマの"Nのために"が再配信となっていた。湊かなえ原作のあのドラマである。配役や役者の演技力さながら、すごく見応えのあるドラマなので前回二週目をみているがやはり面白い。登場人物が多い方がやっぱりドラマや映画はわくわくするような気がします。今回の地上波のドラマの下町ロケットも面白かったし、なんかこう考えるとすごくミーハーなんだなぁ自分と思っています。面白いものは面白い。そう言うしかないんですよね。今のドラマはどれも微妙かなぁと思いつつ、いつからこんなにドラマをみるようになったのだろう……

 

 まぁあまりいい締めではありませんが、取り急ぎ2019年もよろしくお願い致します。また記事書きます。

雑記7

 次から次へと歳を重ねていきます。前回の更新よりおよそ1年と8ヶ月が経過しました。いずれいずれと持ち越してきたもの。時間ができたら。落ち着いたら。今日は疲れてるから。明日時間ができるから。そう言っていつの間にか日々を重ね歳を取ってしまいました。随分時間が経ってしまったなぁと思うばかりです。変わらず落ち着いたかかと聞かれると、そうでもない。仕事は忙しいし、プライベートは仕事が忙しいからだらけるのは今しかないとだらけるし。10年以上も前から意志が弱いのは明白だったはずですが、結局変わるところなく、しかしながら当時は意志が弱い、と嘆きながらも残してきた軌跡を見ると、やはり日々を何か形に残すことは非常に重要な意味があるものだと痛感します。

 SNSで充実した生活を送っている皆様を見ると羨ましい限りなのと、自分には到底できない意識の高さを感じます。これは皮肉ではなくマジなやつとして。自分の本当の好きなことを求め、実践し、課題を見つけてはそれを乗り越えていく、こんな素晴らしいことを仕事をしながらやっている。そんな人たちが周りにいるにもかかわらず、自分は体たらくな日々を送ってしまっているなぁと感じます。

 

 さて、なぜ一年以上も間を空けてこのブログを更新しているかというと、年の瀬だからというのも当然あるのですが、私自身近々三十路を迎えてしまうからです。もうあのときから10年、15年。そこまで劇的な変化が自分の中であったかといえば、当然環境面ではあったかもしれませんが、自身の内面ではどうなのだろうかといつも自問しています。三十歳を迎えるのが刻々と近づいたから余計ここ最近は多くなったのかもしれません。たまたま会社のPCを入れ替える関係で、会社用PCを整理していましたら、そうえいば個人用のPCも何年も整理してないし、古くなってるなと思ったので学生時代から使っていたPCなどを引っ張り出してきて、いろいろと物色していたわけです。恥ずかしながら私の最もクリエイティブだったと言えるような時代のものです。当時の知り合いの方には、あれがクリエイティブだったのか。と笑われそうですが、残念ながらそれ以前やそれ以降とどう比較してみても、最もクリエイティブだったと言わざるを得ません。悲しいですが、あれ以降自分でクリエイティブだと思えたことは何一つなかったのかなと感じます。まぁ当時も、それが大人になるということだと思う、とは書いてはいたのですが、実際三十歳が目に見えてくると現実味が凄いですね。

 このブログもその何かを変えたくて開設したものには違いないのですが、何かやはり私にはものを続ける力というのが一般の人より驚くほど欠如しているようで、続く時は続くのですが……とまさに俗にいう"出来ない人間"がするような言い訳をしてしまっているところです。

 多少の成長というか、評価という面では、ここにきて会社の中で文才を評価してもらっているという点です。もともとそういう勉強をしていた上に、文章を書くことが好きなので、当然といえば当然なのですが、業界的にも社風的にもそんなものは二の次で"どうだっていいもの"に分類されていると思っていた事の中で、私の力が少しだけ発揮され、少しだけ褒めてもらって、少しだけ認めてられている。このことは私の中で、今年の数少ない嬉しいことになりました。出来るからってどうなるわけでもない、そんな分野を突き詰めてしまったためでしょうか。別に特別な文才を持っているわけではありませんが、まぁなんとか会社の中では頑張っている方だと思います。

 

 そういえば大きく環境の変化があるわけではありませんが、小さいことならいくらかあります。仕事上はもちろんですが、趣味にしているDJもそうです。箱がひとつなくなり、またレギュラーイベントもなくなり、別にそれでDJが出来ないというわけではないのですが、ある意味ここからやっていくためには自分で考えて、自分で行動を起こさなければならない状況になりました。ここ数年はあまりDJ活動に力を入れず、あるがままを行い、ブッキングを受けたらやる、またレギュラーイベントはやる。言ってみれば人が作った土俵の上でしかやっていませんでした。意図的にそうした部分もあったので、後悔とかは特にはないのですが、来年からはいよいよ自らが動かなくてはな。と思うところです。仕事上でももちろん今年1月から配置換えがあり元いた部署へ戻ってきました。当時いたメンバーとは違い、また当時いたメンバーも課が違ったり、役職が違ったり、もちろん部署の雰囲気も変わっていて、なんとも前と同じような気持ちじゃ仕事はできないなと思うし、会社から自分に求められることもすごくハードルが上がっているような気がします。変わらないのは自分が未だに一番下っ端だということ……。ただ、幸いなことにハードルが上がっているにしろ、それを乗り越えていこうという気概だけはまだ失ってはおりません。いつの間にか仕事人間になってしまいましたね。こんな世界があるとは思いませんでしたし、自分がこんな考えになるとは思ってもみなかったです。

 

 こんな夜中、むしろ朝方にこうやって文章を書く。しかも取り留めもないようなことをつらつらと書くって、随分やってなかったなと感じます。今日、書いてみてやはり不健康だなぁと思います。不健康なんですよ本当にこれは。ただ当時は不健康でもやろう、思ったときにやろうってちゃんとやってたんですよね。今はなぜか、ブログってのはだいたい1日1記事だろうとか、今書きたいけどPC出すのめんどくさいなとか、もうちょっと腰据えて書こうとか、そんなことばっかり考えて実行に移さないことが多いのです。総合的に考えるとどっちが不健康なんでしょう。よくわかりませんが、あの当時の創作的な発想や考え方を、来年一年間かけて取り戻していこうかなぁっておぼろげに今考えているところです。今年また記事を書くかわかりませんし、来年になっても書かないかもしれない。明日また書くかもしれない。ふわふわっとした状態がここ何年も続いてますが、おぼろげなことでもとりあえずやっていた当時の自分を振り返るいい時間になったので、今日だけは書き残しておこうと思いました。それでは。